科学研究費補助金 基盤研究(C) 文化財科学・博物館学 研究課題番号:25350395

千葉県香取市佐原に所在する箕島陶器商人ゆかりの紀の国屋大蔵について

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はじめに

 本研究は、平成25年度独立行政法人日本学術振興会科学研究費の助成金を受け、3ヶ年計画で事業推進中の千葉県香取市佐原に所在する陶器商佐山家に所在する紀の国屋大蔵の保存を目的としたものである。同家の所有する大蔵は、「重要伝統的建造物群保存地区」の対象地区から僅かに外れるものの、商都佐原の町並みを形成する重要な歴史的建造物である。その規模は全長約十間を測り、当該地域に現存する蔵では最大規模を誇るものである。その大きさはもとより、蔵内には、陶器商として紀州箕島から東京を経て明治15(1882)年に佐原に移住した当時の文書類や商品の陶磁器、日常什器など同家の歴史的背景を精査するに充分な物証が多数残されていることから、建築史学・歴史学・考古学・博物館学の各分野によって総合的な調査研究を実施し、地域文化資源としての歴史的価値を明らかにすることが可能であることに着目したのである。歴史的建造物であるそれぞれの「家」には、当然今日に至るまでの歴史があり、家々にはその歴史を物語る古文書や工芸品、歴史資料などの文化遺産が多数残されている。それらの文化遺産は地域にとっても極めて重要な位置付けがなされることから十分な研究によってその資料的価値が明らかにされるべきである。個々の家々の営みが地域史を構成する重要な要素となっているからに他ならない。今回対象とした佐山家は幕末から明治初期にかけて紀州箕島から陶器商として東京に進出し、佐原に移り住んだ商家である。同家の動向は、商都佐原の形成史や広く産業流通史的にも興味深い情報を明らかにするものであり、その商いの核となった大蔵が往時の繁栄を今日に伝える象徴的なものであることが重要なのである。いわば商都佐原にとっても価値の高い地域文化遺産という評価が可能なのである。
 なお、本資料は、平成25年度の研究成果をまとめた『地域文化遺産の再生に関する総合的研究(一)-紀の国屋大蔵の保存と活用-』の研究報告所載の「地域文化遺産の再生に関する総合的研究の学術的意義」内川隆志、「紀の国屋佐山家の成立と佐原移住の経緯」蒲生眞紗雄、「近世・近代における紀の国屋大蔵周辺の社会環境」「紀の国屋大蔵佐山家文書目録と解題」鎌形慎太郎、「紀の国屋佐山家文書近世借用証文類の翻刻と解説」菊池邦彦から編集したものである。

商都佐原の歴史と風土

 かつて佐原は「お江戸見たけりゃ佐原へござれ 佐原本町江戸まさり」と戯歌に唄われるほど隆盛を極めた商都であり、高瀬船やひらた船を用いた利根川舟運における河港商業の中核として栄え、利根川支流の小野川沿いには米問屋や醸造業を営む店が多数軒を連ねた地域である。伊能忠敬(1745-1818)の在した商家もその一角にある。佐原の町並みは、昭和49(1974)年、文化庁による町並調査を皮切りに、年を追うごとに町並み保 存の気運が高まり、平成6(1994)年には「佐原市歴史的景観条例」(現「香取市佐原地区歴史的景観条例」)の制定、「町並み保存会」が発足、平成8(1996)年に「重要伝統的建造物群保存地区」(※以下「重伝建」と記述する)に選定された経緯がある。指定地区は、忠敬橋付近を中心に小野川と香取街道沿いに展開し、伊能忠敬邸(国指定史跡)、正文堂書店店舗(県指定文化財)など伝統的建築物65棟、その他の工作物(門及び塀)3基、環境物(柳並木)約700メートルが保存されている。さらに重伝建地区以外に「景観形成地区」を設定し、建物の管理・保存が実践され、指定建築物については、保存と景観上から復元修理がなされ、往時の景観を今に伝えるものとなっている。なお、紀の国屋大蔵は、指定地区に隣接する「景観形成地区」に位置する。

舟運

 佐原村は、利根川舟運の一拠点として江戸時代を通して栄えた。元禄8(1695)年には既に町場が広く形成されて在郷町の性格を有するに至っていた。安政2(1855)年赤松宗旦は『利根川図志』という地誌の中で、佐原を次のように紹介している。

佐原は下利根附第一繁昌の地なり。村の中程に川有て、新宿本宿の間に橋を架す。米穀諸荷物の揚下げ、旅人の船、川口より此所まで、先をあらそひ両岸の狭きをうらみ、誠に水陸往来の群集、昼夜止む時なし。

 近世前期に利根川は大規模な瀬替え工事が行われ、それまで江戸に流れ込んでいた物資が銚子に抜け出る流路に変わった。このため佐原は川を通して上下流域の沿岸地域及び江戸まで舟運によって繋がっており、江戸からの物資も廻漕されていた。利根川に流れ注ぐ小野川の河口から上流1.8キロメートルの両岸は「佐原河岸」と呼ばれ、荷物の揚げ下ろしで賑わった様子を赤松は的確に記している。延宝9(1691)年の船数は139艘(高瀬船19・小茶船15・耕作船105)で、元文5(1740)年には高瀬船23・茶船16・耕作110であった。
 天保13(1842)年の江戸から送られてくる下り荷は、繰綿・南京綿・太物・古手等の衣料品、砂糖・素麺・鰹節等の食品、鍋釜・摺鉢・瀬戸物・膳椀・下駄・草履・笠・団扇・蝋燭・提灯等の生活品、源氏香・松蘭香・抹香・煙草等の嗜好品、砥石・鎌・篩・稲扱等の生産道具であった。
 佐原村で生産が著しいものは酒造であり、寛文年間(1661~1672)に伊能三郎右衛門が、常陸国牛堀村平八郎の酒屋名代(酒造米高70石・代金10両)を買い受けて酒屋を始めたという記録がその最初であると指摘されている。享保9(1724)年には、伊能家は酒造高70石の内30石を佐原本宿の永沢仁右衛門に譲渡した。享保11(1726)年には両家を中心に酒造仲間が結成された。元文3(1738)年から寛政5年(1793)年にかけては伊能家の酒造高は千石を超えていたが、文政期(1818~1830)には永沢家が、天保10(1839)年には伊能家が株仲間から名前を消しており、酒造家の変容が看取されるのである。

佐原山車祭礼

 佐原村は、上記の如く、利根川水運の著しい発達や、流域の新田開発による米穀の集散、醸造業の勃興により都市化した。こうした経済状況を背景として、はじめは神輿中心の素朴な浜下り祭りも、江戸中期になると次第に華やかになり、大規模化していった。経済力が蓄積し、富裕町人が祭りのパトロンとなり、町内ごとに山車を作るようになったため、この山車祭りが第二の特徴的な点である。
 夏祭りは八坂神社(旧牛頭天王社)の祇園祭りで、小野川右岸の本宿地区より氏子各町内から山車が十台繰り出され、区域を曳き回される。もともとは旧6月10日から12日であったが、利根川に臨む立地であり、しばしば洪水にみまわれ、祭りの禁止や倹約を仰せ付けられていた。秋祭りは諏訪神社(旧諏訪明神社)の大祭であり、小野川左岸の新宿地区より氏子各町内から山車14台が揃い、同地区を曳き回される。諏訪神社の祭日はもともと旧7月27日である。享保6(1721)年に、佐原新宿の名主四代目伊能権之丞智胤が中心となり、一月遅れの8月27日を祭日とする取決めをしたとされる。
 佐原夏秋両祭礼では、その附祭りとして、25台の山車が曳き回される。その形態的な特徴は、四輪で囃子台と露台の二層構造で、主柱間を彫刻で飾りつけ、露台上に巨大な飾り物(ダシ)をつけることである。嘉永年間(1848~1853)以降、江戸の人形師にその製作を依頼するようになった。それ以前は山車が出る年々に趣向を凝らして氏子が藁等で作っていた時代が続いたとされる。佐原には天保期~嘉永期(1830~1853)の山車として、船戸・仁井宿・寺宿・田宿・上中宿の5台が現存している。紀の国屋が所在する下分町では、安政2年(1855)に制作費用三両で「閑古鳥」を作っている。同年、橋本町・下宿町・下分町三町は嘉永4(1851)年の惣町若者衆の申し入れを打ち捨てておいたところ、笠鉾に代替せず、三町は大屋台を1台ずつ出すようにとの申し入れがあった。下分町は急遽、本宿の荒久町より屋台を借り、「閑古鳥」を飾って山車曳き回しを行っている。

紀の国屋大蔵について

 紀の国屋商店は、明治15(1882)年に今日と同じ佐原町下分において家屋、土蔵の借用をして商売を開始した。佐山家が現在地に居を構えた時期は定かではないが、既に明治21(1888)年に四代目安兵衛が佐原1717-3号から2号に移った記録がある。いずれも香取街道に面して店舗を構えられる場所で、以来同番地での移転や拡張を重ねながら、主に陶器と漆器を取り扱う家業を続けてきたのである。
 屋敷地は、店舗と母屋からなる北方と、他の建物が並ぶ南方に分かれ、それぞれ異なる所有者から、商売拡張に合わせて必要となった土地、建物を順次使用及び所有するようになったことによる。北側の敷地は、香取市佐原重要伝統的建造物群保存地区の範囲に含まれ、保存対象となる伝統的建造物に、土蔵の内蔵を取り囲む店舗と母屋が特定されている。いずれも明治25(1892)年の佐原大火後、明治30(1897)年頃に建てられたと口伝される。一方、大蔵を含む南側の敷地は香取市の景観形成地区に位置する。
 大蔵は明治21年以降に佐山家が使用を開始したものと推定され、口伝によると元の持ち主は天満屋という雑貨を生業とする商家であったと言われている。大蔵そのものの造営年代は文政11(1828)年の書付を伴う加持砂を入れた常滑鉄釉徳利の存在から19世紀前半期に遡るものと推定される。その規模は長さ十軒を誇る二階屋で重厚な漆喰壁と江戸小瓦が葺かれた重厚な佇まいである。
 蔵内一階部分は現在の商品を中心にした品々が格納されるスペースで、二階部分に紀の国屋創業以来蓄積されてきた商品や家系や商売の歴史を語るに十分な文書類が格納されている。文書類に至っては大蔵に隣接する離れなどでも発見されている。

 佐山家文書の概要

 幕末から明治にかけての文書類の総点数は2054点である。このうち、近世の借用証文類が14点(0.6%)で、残りの2041点(99.4%)は明治時代の文書を収録した。明治期の文書残存点数(割合)は次の通りである。

・明治10年代…23点(1.12%)
・明治20年代…57点(2.77%)
・明治30年代…1703点(82.91%)
・明治40年代…18点(0.78%)
・明治期の年未詳…253点(12.32%)

最も残存点数が高いのは明治30年代であり、全体の八割を超えている。明治30年代の文書点数を、1年ごとに示してみたい。但し、年代が複数年にまたがっていないもののみを単純集計してみた概数であり、必ずしも文書の総点数という意味ではない。とはいえ、概ねの傾向をつかむ目安になるものと考える。

(一)近世の借用証文類

 佐山家文書群のうち、近世文書は14点が確認された。これらの中で、年未詳の文書が3点含まれるが、それらについては内容から判断して江戸後期の借用証文であると把握される。また明治3(1870)年の借用証文も同様に把握される。全てが借用証文で、形態は状である。
 最も古い借用証文は、天保2(1831)年、和歌山藩領御蔵所の桝濱浦(はじかみはま)浦に居住する文助らが、金子4両を二代目佐山安兵衛より借用した際に作成された文書である(史料番号1)。また、同4(1833)年には、和歌山藩領の桝里(はじかみさと)村に居住する権蔵・友右衛門らがやはり二代目佐山安兵衛より銀子100目を借用したとみえる(史料番号3)。桝濱村は浦の初島といわれる地ノ島・沖ノ島を含み、海岸線には砂浜が続く漁村であった。桝里村は内陸村で、山腹は蜜柑畑、低地は水田として利用されている土地柄であった。両村ともに紀伊国海部郡に属していた。この時、二代目佐山安兵衛は和歌山藩領御蔵所の名草郡有田小豆嶋村に居住していたことが借用証文の肩書から窺い知ることができる。
 天保期から幕末の文久期にかけての借用証文には、紀伊国の海部郡・名草郡の地名が見られる事例が他にも散見される。こうした証文類だけがなぜ、佐原町に居住し家業を展開していくことになる佐山安兵衛の文書群の中に含まれるのかという点はまだまだ検討の余地があるだろう。一つ可能性として考えられるのは、明治期前半に佐原に家業の販路拡充を求めて〝寄留〟する段階にあたる佐原佐山家初代安兵衛が借用証文類を何らかの証拠書類として一括して所持していたという点である。しかし、借用証文の他に紀の国屋大蔵には和歌山の小豆嶋居住時代の史料は確認されていないのが現状なのである。また、天保4(1833)年、川嶋吉兵衛・藤兵衛らが角家と蔵を担保に金子五十両を借用した証文(史料番号2)には、この借主の居住地が「左原下宿」となっている。天保14(1843)年段階には香取郡佐原村下宿に借主と同名の川島吉兵衛がおり、この史料の二代目佐山安兵衛と「川嶋吉兵衛」との関係性については疑問を呈する点が少なくないのもまた事実である。すなわち、佐山「家」の問題と江戸期の借用証文の伝来過程との関係については限られた情報の中ではまだまだ解明すべき疑問が多く横たわっているのである。今後とも情報をさらに掘り下げていかねばなるまい。そして、紀伊国より香取郡佐原に進出して陶器・漆器卸売業を展開していく人的基盤についても考察する必要があろう。

(二)明治初期の建家・土蔵貸借関係文書類

 佐山家文書群のうち、明治16(1883)年より同21(1888)年にかけて、佐原下宿に居住する川島家の親戚にあたる茨城県行方郡牛堀村・亀屋高橋勘助所有地を四代目佐山安兵衛に5ヵ年間、家賃・蔵敷金12円にて貸し渡す過程で作成された文書(史料番号12)がみられる。形態は竪綴・状である。概数は23点が確認される。川島家の性格が判然としないところであるが、家賃の受取人は所有者の高橋勘助ではなく、川島キクとの契約になっている。この他にも佐山安兵衛は、佐原村に居住する八木善輔の所有地(佐原村下分に所在する宅地一ヶ所)を明治16年4月より同21年3月までの5カ年間借りており(史料番号14)、1年分の地代は20円50銭9厘(6月・12月の2回払)であった。明治16年から同21年段階の借地文書の中で佐山安兵衛は、自らの肩書を「佐原邨寄留地借人」と表記している点が特徴である。
 これらの借地契約の中で、明治16年3月29日に作成された「建家及土蔵貸渡証」によれば、高橋勘助が佐山安兵衛に貸し渡した土地は、香取郡佐原村163番地の建家と土蔵それぞれ一ヶ所ずつであった(史料番号12)。同年3月末頃には高橋勘助代理川島キクと四代目佐山安兵衛の相互で契約の締結がはかられたようである(史料番号13)。その内容を挙げておく。尚、この契約証では、佐山安兵衛が東京市下京橋区八丁堀仲町22番地に居住していたことになっている。

①川島吉兵衛が心得違のため、親戚一同協議の上、一家存続のために契約書を作成した。
②川島家子孫永続のために、親戚の高橋勘助の所有地(佐原村163番地)を佐山安兵衛に貸し渡す。佐山安兵衛とは、「祖先伝来の陶器・塗物商業可致等とに決約ス」とある。
③貸借期間は、明治16年4月より同24(1891)年4月までの満8年とする。
④借主佐山安兵衛は、明治21年までの5カ年間、1ヶ月につき、家賃・蔵敷金12円を高橋勘助代理川島きくに支払う。川島きくは、その家賃によって西浦五郎兵衛・紀陶社への年賦返済に充て、明治22年4月から同24年4月までの3年分の家賃は毎月積み立てて、「川島家永続の資本金ニ充て、家屋引渡の節、川島吉之助へ相渡」とある。
⑤借主の佐山安兵衛は、貸借年限中に家屋を破損させた場合、自己負担で普請し、その必要経費や町入費も一切借主が負担する

 貸借をめぐる川島キクとの相互契約は右記の五点である。④に関しては、他の契約証や高橋勘助が佐山安兵衛に家賃を申し入れた際の文書(史料番号16)等によると、実際の貸借期間は5年であった。注目すべきは川島キクが佐山安兵衛の家賃受取人となり、紀陶社に年賦返済をした点である。このうち、紀陶社は、明治12(1879)年頃、紀州箕島陶器商人である桔梗屋幸七・油屋伝兵衛・岩橋庄助・田中仙次郎らが東京深川富岡八幡宮門前町に設立した陶器販売の合資会社で(『箕島町誌 たちばなの里』・『有田市誌』)、明治17(1884)年に東京日本橋北新堀町に移転し、陶器販売行商を行っていた企業である。さらに、川島キクの償却金は陶器商の濃栄社加藤助三郎・大盛社小畑久平らに対しても有したとみられ(史料番号15)、それは佐山安兵衛の家賃収入で充当する契約であった。ここに登場する濃栄社とは、岐阜多治見の陶器商人加藤助三郎らが明治10(1877)年に起業し、全国はもとより、海外まで市場を開拓させた大企業であった。
 ここから指摘し得る点は次の2点である。

①川島家の親戚である高橋勘助所有地(香取郡佐原村163)を四代目佐山安兵衛は明治21年までの5ヵ年間借り受け、家賃12円を支払った。
②その家賃収入は、家賃受取人である川島キクが、年賦返済と称して陶器商人方に渡った。

 この際、その陶器商人とは、佐山安兵衛の出身地である紀州箕島の陶器商人が設立した企業組織であり、一方では後に満留寿商会と改称して明治期の陶磁器卸業界をリードした企業組織である。この点に注目しながら、佐山安兵衛とかかる陶器商人の接点を引き続き精査していく。
 尚、その後、川島キクは、家賃収入を右記の陶器商への年賦返済に充ててきたが、「年賦金支弁方」を解任されるのが明治17年8月であった(史料番号22)。そして、明治19(1886)7月10日には、紀陶社の岩橋庄助・中尾佐平と佐山安兵衛との間で返済金残額二十円を佐山安兵衛が支払う形で、この貸借関係は一応の決着をみたようである(史料番号26※未掲載)。

(三)明治期紀の国屋陶器・漆器卸小売業関連文書類

 佐山家文書保管箱の行李にある史料群のうち、紀の国屋陶器・漆器卸小売業関係文書は総点数1273点を数える。これは本目録総点数の61.8%に相当する。つまり、紀の国屋大蔵に保管された文書類の半数以上が家業に関わる文書であることになる。特徴的な点は、佐山家側が差出人になっているケースは数えるほどであり、概ね宛名に佐原初代佐山安兵衛ないしは紀の国屋と表記されていることである。
 これらの一括史料群を、便宜上、次のように分類した。

⑴ 陶器・漆器仕入先からの文書類(概数は1002点)
⑵ 陶器・漆器販売相手からの文書類(概数は170点)
⑶ 陶器・漆器荷物廻漕業者からの荷物請取証等(32点)
⑷ 漆器行商販売者からの注文書抜・送金通知状等(36点)
⑸ 佐原町における陶器・漆器販売業者からの卸品代金受領証等(30点)
⑹ 紀の国屋営業教授頼入状(3点)

(四)明治期紀の国屋所有者・佐山家の社会的生活を営む上での文書類

 文書収納用の行李に納められていた文書のうち、紀の国屋陶器・漆器卸小売業関係以外の文書の大半は、佐原佐山家が社会的生活を営む上で佐山家当主及びその家族宛に差し出された史料群と一括することができる。その総数は741点にのぼり、本目録総点数の36.1%を占める。特徴的な点は、佐原佐山家側が作成した文書・記録の類はほとんどないものの、同家の社会的・経済的な活動を把握できるものである。
 これらの一括史料群を、便宜上、次のように分類した。

⑴ 佐原町各商店及び佐原の諸団体・公的機関からの代金受領証類(呂行く28点)
⑵ 佐原町・近隣商店や諸機関からの各種案内状類や報告書及び公的機関・近親者からの通知状
類(38点)
⑶ 佐原佐山家が資金を賛助したことに対する寄附謝状類(3点)
⑷ 佐原佐山家が普通教育を受ける課程で授与された文書類(3点)
⑸ 公的機関・選挙推薦有志者からの賛助願や推薦状類(4点)
⑹ その他の文書類(65点) (形態としては状や綴の他に包紙・祈祷札・酒瓶ラベルの類もこれに該当する)

(五)明治期佐山家の私信類

 この史料群は、佐山家と親しい関係にあったとみられる差出人による通知状等の類を除いた、佐山家の親類縁者からの書状類に便宜的に分類を試みた。具体的には、佐原佐山家初代安兵衛妻・ふく(1853~1932)の父親にあたる和歌山県西牟婁郡田野[井]村・小山重五郎が差し出した書状と封筒4点である。明治32(1899)年1月8日に差し出された書状は、前年(1898)12月31日に年賀状を差し出したが、佐原佐山家側が「今以何ノ通知も無之、実ニ心配仕居候間、其許御家内中衆別條も無之候哉」とみえ、さらに小山重五郎の孫にあたる佐山さわも無事で生活しているか安否を気遣う内容である(史料番号130―7※未掲載)。また、佐原佐山家初代安兵衛がリュウマチを患っていることを気遣う書状もみられ(史料番号130―56※未掲載)、両家間での書面のやりとりは後の大正期にもみられる。

近世借用文書一覧( 菊池邦彦製作 )

紀伊国小豆島村国尾 佐山家の家業

紀伊国在田郡箕嶋邨小豆島村国尾の地理的・歴史的環境

 幕命をうけた和歌山藩が文化3(1806)年から藩の儒臣仁井田好古を総裁に編纂させた紀伊国の地誌である『紀伊続風土記』によれば、江戸時代の小豆島(嶋とも書いた)村は有田川の河口にあった宮崎荘(北岸の北湊村・箕島村・新堂村と南岸の小豆島村・古江見村・山地村・野村)の一村で、次のような概要が記述されている(8)。

田畑高 七百六十五石二斗八升六合(9)
家 数 三百四軒
人 数 千三百六十六人
北湊村の南川を隔て、十一町海口にあり。村領特に海中に突き出て山脈
邐逶(つらなるさま)として西に走り、南北に海を受く。村居数所に分
れて小名あり。粉喰尾を本郷とす。其西なるを浄妙寺谷といひ、浄妙寺
谷の西にあるを中御堂といひ、中御堂の北にあるを箕川といふ。四所皆農
を専とす。其餘皆専漁猟を業とす。粉喰尾の巽にあるを矢櫃といひ、坤に
あるを逢井といふ。皆山を北にして南の方海に面す。粉喰尾の西なるを辰
ヵ濱とす、其西にあるを男浦といひ、男浦の西にあるを女浦といひ、西の
極にあるを宮崎といふ。宮崎は一郡の西の端にして南の方海部郡白崎と相
對す。これ村領村居の大畧なり。小豆島の名義名草郡直川荘小豆島村の條
に辨するか如し。此地古は箕島と同しく海口なれは島の形をなしゝなり。
後世潮退きて次第に新田を開發す。今雑賀屋新田はかりも二十餘町あり。
或は傳ふ辰ヵ濱は古は千軒も家居ありしに津浪にて流しとそ。(以下省略、
句点・読点を補足、傍線は蒲生眞紗雄)

 有田川の河口最南岸(左岸)に位置する小豆島村は、宮崎荘では有田川北岸(右岸)の箕島村(田畑高782石5斗4升5合、家数432軒、人数1575人)に次ぐ規模の村であり、郡内138ヵ村中第七位の田畑高を誇る村である。小豆島村には粉喰尾・浄妙寺谷・中御堂・箕川の四農耕集落と矢櫃・逢井・辰ヶ浜・男浦・女浦・宮崎(宮崎ノ鼻ともいう)の六漁撈集落があり、小字名として残っている。宮崎ノ鼻は突端にあり、海防上紀州藩の遠見番所と狼煙台が置かれていたという。また、海防上の理由から御三家の紀州藩祖徳川頼宣(1602~1671)は熊野津荷浦から二組の漁師夫婦を呼び寄せて矢櫃に住まわせたと伝えられている。つまり、小豆島村は純然たる農耕集落ではなく、海を生活の場とする人々(漁師のみならず船乗なども含む)も混在する複合集落であり、対岸の箕島村と同様に水運を利用できる環境を早くから持っていたといえよう。
 なお、明治44(1911)年測図の五万分一地形図「湯浅」を基に作成した図から地理的位置が確認できる。そして下線部にあるように、この村で最初に開けて村発展の中心となった本郷は、粉喰尾であったという。この粉喰尾が後に「国尾」に転訛したのである。国尾と中御堂も谷地であることが地図からわかるが、地元では国尾と浄妙寺谷と中御堂を併せて三谷とも云うそうである。ちなみに、小豆島の名義は、名草郡直川荘小豆島村の条に「按するに小豆は借字にて阿豆とよふは㘱の字にて崩岸の義なり」とある。㘱は坍(訓読みで「あず」)の古字で、崖の崩れた所、崩れた岸の意味である。崩岸や崩崖もあずと読むそうだ。有田川南岸の崩れた地域を指して小豆島と呼んだのであろう。

佐山家 家祖佐山市郎右衛門(1746〜1828)

図版02

 佐山家菩提寺である法正寺の過去帳には市郎右衛門家の記載は、文政2(1819)年6月23日往生した孫の市太良(佐助長男)の法名を初出としている。市郎右衛門の親世代や市郎右衛門の兄弟姉妹の記載は見られない。断定は出来ないが、国尾における佐山家の初代は市郎右衛門と見ても大過なかろう。

国尾佐山家の家業

佐山佐助(二代目佐山市郎右衛門)所有の『早道算用集』

 有田市郷土資料館館長の西岡巌氏からの聞取りの際に国尾の佐山家は小豆島村の庄屋であったというお話を伺ったが、話が多岐にわたった中でその根拠となる史料の確認が出来ずじまいである。では、佐山家の家業は何であったのだろうか。現当主の言による「有田川のほとりで除虫菊やみかんを栽培し、また山から石を切り出して売る、半農半商の割合に裕福な暮らしをしていた。」という聞書も踏まえて考察をすすめてみたい。
 国尾の佐山家の分家佐山弘和氏の手許に横長の和綴で、内題「早道算用集序」と記された一冊本が残されていた。『早道算用集』とは、別名『増補早道算用集』ともいい、和算家の豊島寿計斎(名は之辰)が著し、宇野貴信の編で明和4(1767)年に成立した本で、寛政9(1797)年に江戸の版元須原屋茂兵衛と近江屋新八から三巻一冊本として出版されたものである。江戸中期以降に和算が普及し、そろばん(早道算用集では十六露盤と表記)の用法解説や売買・貸借の計算など生活に実用できる算術が要求されるようになった。そのような要求に応じて出版された実用的和算書の一点が『早道算用集』であった。この『早道算用集』の表紙裏に次のような墨書での書込みが認められる。

文化十二戌年
柏屋佐助
享和四子五月
享和四子五月
紀州有田佐山佐助(黒印)
紀刕有田小豆嶌邑
紀州有田佐助

さらに、「目録終」(現在の目次)の前の余白部分に表紙裏と同筆で、

紀州有田小豆嶋国尾谷
佐山佐助本主(黒印)
∧市(黒印)

と記されている。

 佐山佐助とは二代目佐山市郎右衛門となった人物である。別家する安兵衛の兄でもある。享和四年は佐助23歳(父市郎右衛門59歳)の時であり、「本主」という記載からも『早道算用集』を入手した年(父から与えられたのかもしれない)と推定できる。商売の取引に必要な実用的な計算技術を書き記した和算書は、家業の経営に従事しようとする若者にとっては大事なものであった。だからこそ、自身の所有物であることを明示したのであろう。また、11年後の34歳の時に「文化十二戌年 柏屋佐助」と追記したのは、この時点で読了したとも読み取れるが、家族を持ち、柏屋佐山家の家業の一翼を担うまでに成長した状況を残したかったからとも推定できる。そして、「柏屋」の屋号と「∧市」の商標を持っていることからも、佐山家は何らかの商業活動に従事していたことが読み取れる。この点を次に検討したい。

作間稼・宮崎陶器商人と佐山家

 『箕島町誌たちばなの里』・『有田市誌』などの先行研究によると、江戸時代の村方の主産業は農耕であり、他の産業は「作間稼」と総称されていた。酒・醤油などの醸造業や大工・木挽・左官・桶屋・鍛冶屋などの村方の作間稼のみならず、廻船・遠国行商・遠洋漁業などの他国への出稼ぎも作間稼と称された。
 特に、有田川北岸(右岸)の箕島・北湊と南岸(左岸)の小豆島の三ヵ村は有田川河口に位置し、北湊の港から上方・薩摩や江戸へ廻船を仕立てての作間稼が盛んになったという。『町誌たちばなの里』には作間稼に参加した者を調査して、箕島で26軒、北湊で4軒、小豆島で6軒の屋号を記している。小豆島の中に「大松屋」と共に「柏屋」の名もある。この地域は中世末から廻船に恵まれ、かつ熟達した船大工などが確保でき、さらに富裕な有力農民がかなりいたので、遠国行商などに進出、あるいは投資する能力と機会を生かすことが出来たのである。扱う商品は漆器・蜜柑・木材・蝋燭・砂糖・棕梠皮・陳皮など多様であったが、やがて宮崎陶器商人(箕島焼物商人)が最も知られるようになる。
 宮崎陶器商人(当時の史料には「箕島焼物商人」とか「箕島瀬戸物商人」などと表記されている)とは、農閑期に海南の黒江村で黒江塗の椀・折敷(食器や神饌をのせる角盆や隅切盆)などの漆器類を仕入れて九州で売り、その資金で帰りに肥前の伊万里で瀬戸物類(陶器)を仕入れて江戸に運んで販売した商人たちのことである。江戸に運んだ荷物は、当初は御堂堀の河岸に船を繋ぎ止めて川端で見世を張って直売りしていたが、その後町家に担売り(現在の訪問販売)にも出るようになり、やがて市中の同業者への脅威となった。そのため、享保6(1721)年から市中での直売が禁止となり、箱崎町一丁目の瀬戸物問屋坂本三右衛門の許に荷揚げして仲買人を集めてせりによる市売という問屋売に変更した。また、廻船業者は鉄砲洲船松町一丁目の紀州出身と推定出来る紀伊国屋久兵衛が担当することになった。一方で、宮崎陶器商人の中には江戸周辺の町や村に直売行商する者も出現した(『町誌たちばなの里』では江戸売に対して関八州直売行商と名付けている)。慶応4(1868)年の福吉屋与七の「諸国得居帳」には日光道中・中仙道筋・水戸街道・東海道筋・甲州道中・銚子附近の6つの販売ルートが記されている。ちなみに、水戸街道ルートには「佐原(下総国香取郡)」・「牛堀(常陸国行方郡、後述の高橋勘助の居た場所))」の名が記載されている。福吉屋に限らず、宮崎陶器商人の中には関八州及びその周辺に多様な販売ルートを持っていた者がいたことは想像に難くない。
 また、他国出稼ぎは原則的には1ヵ年を限度に許されるもので、その間に帰国するのが建前であったが、江戸売の宮崎陶器商人の中には江戸店を構える者も出てきた。陶器商人ではないが、先述の浅草並木町に店を構えた大松屋宇兵衛(本名大松平三郎)はまさしくこの例である。
 隣近所に住み血縁もある大松平三郎との関係を考えると、大松平三郎に刺激されたのか、誘われたのかは措くとしても、佐山市郎右衛門も作間稼に参加したのは想像に難くない。作間稼に参加した小豆島村の一軒として先述の『町誌たちばなの里』に「柏屋」という名が出てくる。法正寺の過去帳「E」・「F」を見る限り、柏屋を名乗っているのは佐山市郎右衛門本家と別家の佐山安兵衛家(「西ノ柏屋」あるいは「柏屋」と表記している)のみである。また、先述の佐山弘和氏所蔵『早道算用集』には「柏屋佐助」と記載されている。さらに、「紀の国屋大蔵佐山家文書」中の天保4(1833)年から明治3(1870)年に至る六通の借用証文と覚書(史料番号211)の宛所や本文中に「柏屋安兵衛(二代目と四代目)」・「柏屋市兵衛(三代目)」と記載されている。ということは、『町誌たちばなの里』に記載されている「柏屋」は国尾の佐山家と断定しても大過あるまい。聞書にある「半農半商」の伝承は事実といえよう。
 では、どのような農業に従事していたのだろうか。聞書には「除虫菊やみかんの栽培」とあるが、紀伊徳川家の入国以来蜜柑栽培は保護され、北湊は有田蜜柑(紀州蜜柑)の主要な積出港であった。有田川沿いや山裾の平坦地や山腹が蜜柑畑として開墾が進められたので、国尾谷も例外ではなかったといえよう。したがって、佐山家もミカン栽培をしていた可能性は高いといえる。しかし、除虫菊の栽培については、有田の山田原村出身の上山英一郎(大日本除虫菊株式会社創業者)がアメリカ人から明治18(1885)年に除虫菊の種子を譲り受けて翌年に栽培を始めたのが最初であるから、明治20年代の本家なら可能性は否定できないが、少なくとも明治初期に小豆島を出た佐山安兵衛家が除虫菊を栽培していたことは誤りといえる。米作については現時点では確認する資料が見当たらない。
 次に、作間稼としてはどのような事をしていたのだろうか。聞書には「山から石を切り出して売る」とあるが、有田川の上流から切り出した木材(紀州材と称した)が北湊の港から廻船で各地に積み出されたことが知られているが、石材については管見の限り資料が見当たらない。恐らく木材販売が石材販売に誤伝したのではないだろうか。明治3(1870)年に柏屋安兵衛が黒江塗の漆器用材を扱っていたと思われる文書も存在する。ところで、先述の宮崎陶器商人についてであるが、小豆島や北湊にも若干いたが、箕島出身者が中心になっていたというのが『町誌たちばなの里』・『有田市誌』などの説である。別家の四代目佐山安兵衛が陶磁器と漆器を扱う商売をしていたということから類推するならば、小豆島の柏屋佐山本家も木材のみならず、陶磁器や漆器も扱っていたと考えるのが妥当ではないだろうか。つまり、柏屋は小豆島の数少ない宮崎陶器商人の一人だったといえよう。

四代目安兵衛の東京移住の事情

移住の事情と時期

聞書によれば国尾の西の家を破産させてしまったので東京に出たということだが、この伝承にはやや疑問がある。前項の明治3年の確認覚書もその一つだが、もう一つの根拠は次の2点の史料である。

①明治三年午九月 四代目
⬜︎光旭善童女 安兵衛女子
東京ニテ死ス
俗名おてい
二才
②国尾
智遊 五月朔日 佐山安兵衛母

①は紀の国屋佐山家の『過去帳』「A」の七日の条に、②は法正寺の過去帳「F」の明治7年(1874)年の条に記載されている記事である。①からは安兵衛の長女「おてい」が明治3(1870)年9月7日に2歳で東京で歿したことがわかる。まだ乳飲み子であったから18歳の母親ふく(福)も当然付添っていたであろう。ところで、おていの記事は法正寺の過去帳「F」には見当たらない。ということは、おていの死は法正寺に知らせて僧侶を招くとか、国尾に遺骸を納めるという手続きを取ることなく、東京で葬儀を行って埋葬されたとみるべきであろう。これは22歳の安兵衛の判断といえよう。遅くとも明治3年の時点で東京にも居を構えたとみるべきである。ただし、前項の明治3年9月25日付の確認覚書中に「小豆嶋柏屋安兵衛殿」と表記されていることからも国尾の西の柏屋の家から一家全員で去ったわけではない。
 一方、②は安兵衛の実母「く尓」が明治7年5月朔日に43歳で歿した記事である。法正寺の過去帳に記載されているということは、く尓の葬儀・埋葬は法正寺で執り行われたということを意味する。ということは、恐らく安兵衛留守中の西の柏屋家を15歳の弟由之助と実母く尓が一緒に守っていたものと思われる。そして、26歳の安兵衛は、母の死を契機に弟由之助を引取り、国尾を去って東京を拠点に活動することを決断したのであろう。
 聞書にある「東京で紀州の塗り物や材木、ろうそくなどの卸をしていた親戚」とは宮崎陶器商人の江戸店であり、別家佐山安兵衛家に代わって江戸店の運営を担当していた佐山本家の一族と思われる。そして、「一八七四(明治七)年、東京下谷(台東区)に「紀伊国屋」という屋号で瀬戸物と塗り物の小さな店を始めた。」という部分は、東京を拠点に活動することを決断したことの反映である。下谷については確認する資料は現時点ではないが、瀬戸物と塗物とは、正しく宮崎陶器商人の扱ったものであり、別家佐山安兵衛家が代々扱っていた商品でもあった。ただし、「この店は妻と息子に運営させた」という行は、長男千代松(安一郎)(のちの五代目安兵衛)は明治七年時点でわずか四歳にすぎないのでありえない。これは15歳の弟由之助の誤伝と思われる。聞書は事実の反映もあるが、明らかな錯誤や誤伝も含まれていることに充分留意する必要があるといえよう。
 以上のことから、安兵衛は遅くとも明治3年から徐々に東京移住を進めていたことがわかった。では、なぜ東京を選んだのだろうか。10年の宮崎陶器商人としての経験を積んだことと、江戸店と「関八州直売行商」で培ってきた佐山安兵衛家のノウハウを受継いだ目には、東京とその周辺地域の可能性は大きいと判断したのではないだろうか。近代国家の中心地としての東京の発展性に賭けたともいえよう。

佐原移住前の住居

 聞書では安兵衛は明治7年に「紀伊国屋」を下谷に開業したというが、下谷には近くに河岸がないので、当時一般的な水運を利用した陶器・漆器の集荷にはあまり適した場所とはいえない。この店は小売が主であったのかもしれない。後述の茨城県行方郡牛堀村の高橋勘助(亀屋)との関係などを考慮すると、安兵衛は「関八州直売行商」に力点を置いていたのかもしれない。
その後移転し、少なくとも佐原移住前は京橋区八丁堀仲町二十二番地(現、中央区八丁堀二丁目)に店を構えていたことがわかる。「紀の国屋大蔵佐山家文書」中の契約証綴(明治十六年三月末ヵ四月初、史料番号13)の署名者の一人に次のような記載がある

東京府下京橋区八丁堀仲町
弐拾二番地
家屋借主
約定主 佐山安兵衛○印

図版03

安兵衛の住所(○ア)は、箱崎町の辺りで日本橋川から分流し、霊巌島を南に進み、亀島橋を過ぎて南東に折れて隅田川に合流する亀島川の河岸に近いところに位置している。近くの箱崎一丁目(現、中央区日本橋箱崎町)には江戸時代に宮崎陶器商人の荷物を一手に扱っていた瀬戸物問屋坂本三右衛門(○ウ)がいたし、浜町には紀州藩蔵屋敷(○エ、現、日本橋蠣殻町1丁目)もあった。
 当時は日本橋川と箱崎川の合流地点の箱崎1丁目二番地に安兵衛とも取引のあった陶磁器の卸業者大盛合資会社(○イ)があり、隅田川を渡れば深川の富岡門前東仲町にあった紀陶器社とも目と鼻の距離であった。陶磁器卸業者が多数いた浜町や蠣売町(現、蠣殻町)にも近い位置にあり、次第に事業規模を拡大してきた安兵衛にとっては、この地に店を構えるメリットは大きかったといえよう。さらに、○ウ○エの存在を考慮すると、別家佐山家の江戸店がこの場所か、あるいはこの近くにあった可能性も否定できない。

四代目安兵衛の佐原移住の経緯

(一) 移住の理由

 聞書では「東京ではなかなか業績が伸びず、佐原に移ったのが一八八二年(明治十五)のこと。商業が盛んな佐原に目をつけてのことだった。」というのが、四代目安兵衛の佐原移住の理由である。また、紀の国屋佐山家の『過去帳』「A」にも「明治十五年下総国香取郡佐原町下分町四代目開店ス」とある。そこで、「紀の国屋大蔵佐山家文書」の分析を通してこの伝承の正誤を探ってみたい。手がかりとなる史料は次の8点である。①【史料番号12】②【史料番号13】③【史料番号14】④【史料番号15】⑤【史料番号16】⑥【史料番号20】⑦【史料番号21‐1】⑧【史料番号22

 これらの文書から次のようなことが確認できる。の「建家及土蔵貸渡証」から、明治16(1883)年3月29日付で常陸国行方郡(明治11年の郡区町村編成法で茨城県行方郡)牛堀村の高橋勘助所有の下総国香取郡(明治11年の同法で千葉県香取郡)佐原村一六三番地の建物1ヵ所(この家が間口3間半で奥行7間であったことは文書番号21‐2の「建家土地貸借関係書類一括」中の文書からわかる)と土蔵1ヵ所を明治16年4月から明治21(1888)年4月までの5年間佐山安兵衛に月12円の賃貸料で貸渡すことが高橋勘助と証人川嶋キク連名で決まったことがわかる。
 そして、の「契約証」から、親族会議によって経営難で多くの借財を抱えた川嶋吉兵衛家を救済するために、吉兵衛の店と土蔵を安兵衛に貸渡したことがわかる。その際、家屋・土蔵の所有者である高橋勘助は安兵衛と旧縁があり、安兵衛に「祖先伝来の陶器塗物商業可致こと」と依頼している。川嶋吉兵衛の借財がから陶磁器卸業者であることがわかるので、川嶋家が代々陶器を扱っていたことは予測できる。ただし、この部分は安兵衛にも該当することであり、国尾にいた別家佐山安兵衛家は「関八州直売行商」を行っていた家であり、四代目安兵衛も東京に出てきてから先述のように「関八州直売行商」に取組んでいたと推定できる。そして、「紀の国屋大蔵佐山家文書」から高橋勘助は「∧久」の商標と「亀屋」の屋号を持ち、亀屋勘助とも名乗っていたことがわかる。高橋勘助が安兵衛と古くから縁があるということは、「関八州直売行商」の得意先の一つであった可能性が高い。先述の福吉屋与七の直売行商の販売ルートを記した「諸国得居〔意〕帳」の水戸街道ルートには「佐原―牛堀」が記されている。ということは、安兵衛の15歳からの20年間の実績と手腕を見込んだ高橋勘助の依頼を引受けた結果の契約といえる。
 また、では賃借期間は5年間となっていたが、では明治24(1891)年までの8年間とし、5ヵ年分の家賃・倉敷料の月12円は高橋勘助の代理人川嶋キクに渡し(4月11日付ので高橋勘助が遠隔地にいるので川嶋キクを代理人にする旨安兵衛に伝えている)、その金で紀陶社などへの年賦返済に充てると述べている。残りの3ヵ年は毎月積立て川島家永続の資本金にするという。
 このの契約証には貸主高橋勘助の代理人川嶋キクと借主佐山安兵衛の他に証人として家屋・土蔵の前所有者であった川嶋吉兵衛と川嶋家の親戚惣代鵜沢治と会津若松原ノ町の渡辺久吉と山田市郎兵衛の4名が署名・捺印している。契約の原因をつくった川嶋吉兵衛が佐原村五五六番地野口吉右衛門方に同居しているということは、この契約証が作成された時点で一六三番地の家屋・土蔵から荷物を運び終わっているということを意味する。証人の一人山田市郎兵衛は四月二日作成のの委任状に立会人の一人として署名・捺印し、さらに本文中に「紀陶社担当人」と記載されている。紀陶社の代表的人物であり、後に安兵衛の長男千代松(安一郎)を山田市郎兵衛の許に奉公に出している(44)ことからすると、川嶋吉兵衛・安兵衛両者と取引のあった卸売業者といえる。渡辺久吉はの委任状に川嶋キク・鵜沢治と共に約定人として署名・捺印している。「壺屋」の屋号を持っているのと高橋勘助と同じ「∧久」の商標を持っているので、高橋勘助と同一グループか川嶋家に縁のある陶器か漆器の業者と思われる。なお、川嶋キクについては、明治十六年七月よりの「入金台帳」に「川嶌吉兵〔衛脱アルカ〕殿 老母きく」という記載があるので、川嶋吉兵衛とキクは親子関係にあったことがわかる。には作成日時が明記されていないが、(3月29日付)と家賃の返済先と額を詳細に明示した(4月2日付)との間に作成されたか、と署名・捺印者の多くが重なると同時に作成されたと推定したい。
 そして、の4月1日付で佐原村の地主八木善助との間で作成された高橋勘助から借りた家屋・土蔵部分の借地契約の証文からは、家屋を含む土地が67.75坪で土蔵部分を含む土地が36.06坪の宅地(合計103.81坪)であること、この地代は年20円50銭9厘で6月と12月の末までに半金ずつ納入する契約であることがわかる。事実、の裏書によれば、明治21年6月まで支払われており、7月からは安兵衛側の要請で月払となったことが明記されている。
の4月2日付委任状からは、をうけて安兵衛が高橋勘助の代理人川嶋キクに支払う家賃・倉敷料月12円の内、債権者の紀陶社(宮崎陶器商人たちが設立した会社)山田市郎兵衛・濃栄社(多治見の陶器商加藤助三郎が設立した会社)加藤理〔助ヵ〕三郎・大盛社小畑久平と川嶋キクが協議し、5円を紀陶社・1円2銭を濃栄社・90銭を大盛社にそれぞれ償却代金として毎月安兵衛が代って支払う権限を託されたことがわかる。ただし、この件は川嶋家側にとっては不満であったみえ、9月16日付で川嶋キク・鵜沢治連名で紀陶社・濃栄社・大盛社への支払依頼を解任する旨の「家賃支弁差押書」()を安兵衛に渡している。しかし、債権者の紀陶社・濃栄社・大盛社などの了解を得られなかったようで、1年後の明治17年8月までは安兵衛から支払われたとみられる。その結果が9月16日付の「解任証」()である。この経緯からは、債権者の紀陶社・濃栄社・大盛社は安兵衛の力量に信頼を置いていたことが読み取れる。の明治16年7月1日付の八木善助宛の30円の借用書も川嶋吉兵衛の地代金未納分の肩代わりである。安兵衛の経営能力が佐原の有力者からも信頼されていた結果ともいえよう。
 以上の考察から、佐山安兵衛は得意先の一つと思われる高橋勘助の依頼を受けて佐原一六三番地にあった川嶋吉兵衛の店と土蔵を借受け、その土地も八木善助から借受けて陶器・漆器の商売を引継いだのである。引継いだ中には川嶋吉兵衛の商圏も含まれていたであろう。勿論、「関八州直売行商」をしていた安兵衛には佐原への土地勘もあったであろう。小野川・利根川を利用した水運による物資輸送の利便性にも着目したと思われる。
 なお、天保4(1833)年正月付で左原下宿の川嶋吉兵衛・同藤兵衛・江戸屋宇兵衛が角家(間口三間半・奥行五間半)と蔵(間口二間半・奥行四間)と家財道具を担保に金50両を柏屋安兵衛(二代目)から借用している記録がある(史料番号2)。この角家と四代目佐山安兵衛が借受けた家屋とは、間口は同じだが奥行が一間半違う。しかし、50年の間に増築されたと推定すると同一である可能性も否定できない。だとすると、半世紀にわたる因縁も四代目安兵衛の佐原の店と蔵を借受ける背景の一因であったかもしれない。

(二)移住の時期は何時か

 では、安兵衛一家が佐原に移住したのは何時なのだろうか。明治16年4月1日作成の借地証文()には「佐原邨寄留地借人」と署名している。3月末から4月2日前後作成の契約証()には「東京府下京橋区八丁堀仲町弐拾二番地」と記載されている。また、7月1日付の借用書()には「佐原町下分町」と記載している。
 寄留とは、明治4(1871)年の戸籍法で規定されたもので、公私の用で本籍地を離れ、90日以上一定の場所に住所または居所を持つことを指している。から少なくとも4月前後の現住所は東京府京橋区八丁堀仲町二十二番地に店を構えていたと思われる安兵衛が4月1日時点で「佐原村寄留」と署名しているということは、この時点で安兵衛自身は佐原村に90日以上住んでいたということになる。高橋勘助の依頼で川嶋吉兵衛の店を引継ぐためにはそれなりの準備と調査が必要であろう。佐原での市場調査をへた結果が3月29日からの一連の史料である。紀の国屋佐山家の『過去帳』「A」が指摘する「明治十五年開店ス」は、安兵衛が佐原に居所を構えた時期(明治十五年後半から末ヵ)とするならば納得できる。ただし、安兵衛一家(31歳の妻ふく・13歳の長男千代松・24歳弟由之助)全員が移住して経営を始めた時期とするならば、翌明治16年4月以降とすべきであろう。7月1日付で「佐原町下分町」と署名していることは、東京を引払って一家で佐原に移住したことの証しといえよう。
 ちなみに、9月16日付()と翌明治17年9月19日付()で依然として「佐原邨寄留佐山安兵衛殿」と表記されているのは、川嶋キク側の認識か、あるいは本籍をまだ移していなかったためと推定したい。

(三)開店した店はどこか

図版04

 ところで、川嶋吉兵衛に代わって安兵衛が開いた佐原一六三番地の店とはどこにあったのだろうか。四代目安兵衛の戸籍には、

明治廿一年八月二日イ千七百十七番地内二号ヘ移ル
千葉県香取郡佐原町イ千七百十七番地内三号

という注記がされている。イ一七一七番地内三号とは、現在の紀の国屋(○印のついているイ一七一七‐五、他に離れや大蔵のあるイ一七一七‐七とイ一七一八‐八が含まれる)の左隣にある井坂屋の場所である。そして、イ一七一七番地内二号とは右隣の虎屋の位置に相当する。明治21(1888)8月は、高橋勘助との5年間の家屋・土蔵の賃貸借期限(4月)の4ヵ月後である。賃貸借期限を受けて高橋勘助側の事情からか、安兵衛側の事情からかは不明であるが4ヵ月の猶予あるいは準備期間をおいて移転したものと推定できる。したがって、イ一七一七番地内三号が佐原一六三番地であったと断定しても大過あるまい。現在地のイ一七一七‐五に店を構えるのはさらに後といえる。
 また、佐原移住前後に結婚したと思われる弟の由之助(妻となるいしは明治16年時点で17歳)は、遅くとも明治20(1887)6月(26日に長女テウが生後6ヵ月で死去)には別家して「佐原町二百七十二番地」に住んでいたことがわかる(前掲浄土寺の過去帳「B」)。明治28年3月13日の死歿時には「佐原町イ千七百十八番地内三号(図版参照)平民」とある。佐原二七二番地とイ一七一八番地内三号は同じと判断したい。
 なお、安兵衛が佐原一六三番地で店を開く前に佐原で寄留していた所はどこだったのだろうか。「関八州直売行商」で利用していた定宿とか高橋勘助に紹介された宿などが推定できるが、断定は出来ない。

むすびにかえて

 以上、平成25年度の紀の国屋大蔵をとりまく史料調査班の研究成果を中心に、現時点で判明している歴史的背景をみてきた。
 すなわち、佐原佐山家紀の国屋のルーツが、佐山市郎右衛門(1746〜1828)を家祖とする紀州宮崎陶器商人柏屋であることが判明した。市郎右衛門の四男で、江戸で陶器商人として活躍していた初代平助(1796〜1824)が29歳にして江戸で歿した後、二代目を継いだ三男安兵衛(1793〜1845)は西の柏屋と称し、江戸と国尾を行き来して佐山本家に代わって江戸の店を切り盛りするようになったのである。安兵衛の長男市兵衛(安兵衛二世)(1818〜1863)は、28歳で三代目を継ぐが46歳で関八州直売行商の最中、下総松戸植木屋平七方において客死したのである。四代目を継いだのが15歳の長男安兵衛(1849〜1909)である。明治3(1870)年頃には、妻ふく(福)と共に既に東京に居を構えており、明治7(1874)年、実母おく尓(く尓)歿後、弟の由之助(1860〜1895)を連れ立って国尾を去り、東京を拠点に商売を展開、明治15(1882)年には、佐原に店を開業し、明治16年には川島吉兵衛の店と土蔵を借り受け、家族全員が佐原一六三番地に移住し、今日に繋がる佐原紀の国屋佐山家の礎を築いたのである。
 研究の眼目である総合的視点による大蔵の解析は、引き続き史料学班、建築史班、考古学班、博物館学班によって推進している。特に今年度は考古学班による陶磁器類の評価ならびに明治から戦前までの主要商品であった常滑製の土管類などの資料研究を主軸に研究を展開し、陶器商紀の国屋の商いの実態等についてアプローチするものである。また、本研究を通じて幕末から近代にかかる宮崎陶器商人の動向の一例を提示できたことから、本テーマに関しても今後掘り下げを行う予定である。

主要参考文献

箕島町編纂委員会 1951 箕島町誌『たちばな乃里』箕島町誌発行会
有田市誌編集委員会 1974 『有田市誌』有田市
有田市郷土資料館 1989 『有田の歴史と文化』
有田市青年会議所JCデー統一事業特別委員会編 1990 『宮崎陶器商人』
前山博 1990 『伊万里焼流通史の研究』誠文堂印刷株式会社
小野川と佐原の町並みを考える会 2001 『佐原の町並み』
小野川と佐原の町並みを考える会 2001 『町づくり10年のあゆみ-歴史のまち保存と再生-』
佐原市 2004 『佐原の町並み資料集成』
内川隆志編 2016『地域文化遺産の再生に関する総合的研究(一)-紀の国屋大蔵の保存と活用-』