過去の研究
後・晩期の局部磨製石鏃 ―関東型と中部型―
大工原 豊
1 局部磨製石鏃とは何か
縄文時代の石鏃の中には、部分的に研磨された石鏃が存在する。こうした石鏃は、局部磨製石鏃(1)、半磨製石鏃(2)、部分磨製石鏃(3)といった名称を付されて注目されてきた。この種の石鏃は、南九州の草創期、西北九州の早期・前期・後・晩期、関東・中部の早期押型文段階、関東・中部の後・晩期に盛行したことが明らかになっている。また、これ以外にも近畿や北東北でも散見されることが知られている。
筆者も後・晩期の事例について、石器型式に関する研究に最適の資料であることからこれまでも論じてきた(4)(5)。研磨する目的は、根挟みに装着する際の接着面の下処理と推定される。水に強い接着剤であるアスファルトの産出する東北地方にはほとんど存在せず、ほとんど供給されない地域に分布しているのは、アスファルトに代わる接着剤が用いられていたためで、接着面をザラザラにして接着効果を高める必要があったと推定している。そして、石鏃全体の数パーセントした存在しないのは、特殊な用途に用いられたものであったことによるものと推定する。すなわち、通常の狩猟用の矢ではなく、水中でも接着状態を維持する必要のある漁具の先端に装着された可能性があると考えている。また、内陸部を中心に分布していることから、内水面漁撈に用いられた小形漁具であるヤスの先端に装着されたものと推測している(6)。したがって、局部磨製石鏃は通常の石鏃とは別の器種として区別しておく必要がある。
局部磨製石鏃は、考古学的にはさらに大きな意味も持つ。通常の石鏃と同じ押圧剥離技術で製作された後、最終工程で研磨して仕上げる工程を有する。したがって、遺跡から出土したものは、たとえ欠損していてもすべて完成されたことがある石器である。見た目の形状が整っていなくとも、縄文人はそれを範型の許容範囲に含めて認識していたものであり、石器型式や範型について検討するための格好の資料である。また、研磨された部分は根挟みによって不可視化されてしまうため、製作集団以外はどのような状態なのか分からない。つまり、製作方法を伝授されない限り、技術情報は秘匿されてしまうことになる。
筆者はこうした特徴をもつ後・晩期の局部磨製石鏃にいくつかの型式を設定し、範型と型式変容、あるいは伝播・流通の問題について詳述しているが、本論ではそれを再確認し、さらに今後の研究課題について述べてみたい。
2 関東型局部磨製石鏃
石器の型式を論じる場合、一連の製作工程で製作された全器種を含めた型式概念としての「式」と、特定器種のみを対象とした「型」に分けて考えることができる(7)。前者は自給自足的に各遺跡で製作されている場合に適応した型式認定の方法であり、説得力も高い。一方、後者は特徴的な器種のみを対象とするので、全体の製作技術を把握することは困難であり、説得力に劣る。広域にわたって型式情報や製品が伝播・流通していた石器の分析の際に用いる概念であるが、反復的に出現する汎用技術で製作された単純な形状の石器には適していない。ここで扱う後・晩期の局部磨製石鏃は特定の石材(黒曜石・下呂石)、特殊な技術(研磨)を用いており、「型」の概念を用いた分析に適した器種である。そして、石器の型式は石材・形状・技術の特徴を必要条件として認定する。
関東型局部磨製石鏃(以下関東型とよぶ)は、黒曜石を用い、比較的厳格な範型をもち、基部を中心に縦方向に研磨してわずかに凹面にするといった特徴を有している(図1)(8)。さらに詳細にみると、凹基無茎の大小二つの主要な範型(Major model)と、平基無茎と有茎の副次的な範型(Minor model)が存在している。時期的には後期前葉に出現し、後期中葉~後葉に盛行し、晩期中葉まで存続する。中期末葉の事例と弥生時代前期末葉の事例があるが、類例は少ない。
関東型の型式変化は緩やかで、主要な範型は通時代的に存続し、副次的な範型のうち平基無茎が後期後葉に出現し、晩期にかけて徐々に増加する傾向が認められる。すなわち、関東1型(後期型)から関東2型(晩期型)への緩やかな変化となる(図3)。また、副次的な範型のうち有茎形態は、関東地方で通常の石鏃でも有茎鏃が普及する後期後葉に出現し、その後も細々と作り続けられていたようである。
関東型は群馬地域に濃密に分布し、周辺地域では散漫な分布を示している。また、最古例も最新例も群馬地域に存在しており、途切れることなく通時代的に安定して存在している(図2)。したがって、群馬地域が関東型の中心であり、この地域で製作されていたことは確実である。周辺地域に存在するものも、おそらく群馬地域から搬入されたものと推定される。
3 亜型式の出現―南関東亜型
後期中葉になると、東海地方沿岸部に非黒曜石製の局部磨製石鏃が分布する。これらは様々な石材が用いられており、形態も凹基無茎が主体を占めるが、円基と有茎も存在しており、厳格な範型をもつ型式ではない(図4)。また、時期的にも後期中葉が中心である。この一群は「(仮称)東海型」と呼称している(9)。おそらく神奈川地域から伝播したものと推定される(図5)。今後の類例の増加を待ちたい。
その後、後期後葉には南関東地域においてチャートを素材とした局部磨製石鏃が製作されるようになる。東京都武蔵村山市上ん台遺跡では12点出土しており、この遺跡かその周辺地域で製作されたものと推定される。この一群はチャートとなる以外は、関東型と型式構造がほぼ同じである(図6)。北関東から技術情報が伝播したものと推定される(図7)。遠隔地からの石材である黒曜石が利用できず、在地石材であるチャートが代用されたことにより出現した亜型式(sub-type)と言えよう。関東型を製作していた北関東の集団と親和性の高い南関東の集団によって製作された亜型式を「南関東亜型」と呼ぶことにする(図8)(10)。
3 新型式の成立―中部型局部磨製石鏃
岐阜・愛知両県を中心には、下呂石製の局部磨製石鏃が存在することが知られている(斎藤1986)。これらは様々な形態が存在しており、特定の範型に限定されない。また、研磨方向が縦だけでなく斜めや横方向もあり、規則性に乏しい。詳細に観察すると、凸面を平坦化するように研磨されており、関東型のように縦方向で凹面を作り出すような研磨は認められない。つまり、研磨具と研磨方法が中部型は関東型とは異なっている(図9)。このような型式構造をもつ局部磨製石鏃について「中部型局部磨製石鏃(以下中部型と呼称)」と呼んでいる(11)。中部型は後期後葉から弥生時代前期まで存続しており、関東型より後発で成立する型式である。その背景には後期後葉に関東型が中部地方への分布域の拡大する現象が関係しているとみられる(図7)。西へ拡大した伊那谷の動態が中部型の成立との関係を考える上で重要である。例えば、田中下遺跡では6点の関東型が確認されるが、ここでは北関東系の高井東様式土器群が存在しており(12)、この土器群の動態と密接に連動していた可能性が高い。特に、中部型の成立に重要な役割を果たしたのは、関東型最西端に位置する飯田市中村中平遺跡である。ここでは関東型19点と、中部型8点が併存している。両者がまとまって併存する遺跡はこの遺跡だけである。技術や形状といった型式情報が正確に伝わらず、情報が転換してしまい中部型が誕生したものと推定されるのである(図10)。おそらく、製作技術ではなく製品が搬入され、それを自己流で真似ようとして中部型が成立したのであろう。
4 今後の課題―流通する局部磨製石鏃の検証―
関東型は、ほとんどが黒曜石であることから、常識的に考えれば、長野県の原産地周辺地域で製作されたとの推測が成り立つ。前述のように、中心地域は群馬地域であり、原産地周辺ではむしろ非常に少ない。すなわち、群馬地域で製作され、それが周辺地域へ製品として流通していった可能性が高いのである。さらに、これを実証するためには、黒曜石の産地分析が必要不可欠となる。群馬地域の後・晩期の黒曜石の産地分析資料は最近大幅に増加し、地域ごとにその変遷が異なっていたことが明らかになりつつある(13)(14)。黒曜石の変遷と局部磨製石鏃の変遷が一致すれば、その地域が製作地域であったことが傍証されるのである。
まだ、全資料についての産地分析は行われていないが、一部で試行的な分析が行われている。例えば、天神原遺跡では後・晩期の遺物包含層から出土した局部磨製石鏃の産地分析が行われている。後期後半では星ヶ塔系9点・和田峠系1点、晩期前葉では星ヶ塔系3点・和田峠系1点・不明1点である。これに対し、原石では後期後半は星ヶ塔系8点・和田峠系14点、晩期前葉では星ヶ塔系21点・和田峠系6点であった(15)。後期後半では明らかに局部磨製石鏃と原石の産地の比率が一致しない。これは天神原遺跡で局部磨製石鏃が製作されていなかったことを示すものと言えよう。
また、中栗須滝川Ⅱ遺跡では、加曽利B2~B3式期星ヶ塔系1点・麦草系1点、安行3a式期星ヶ塔1点であった(図11)(16)。麦草系の黒曜石が流通するのは、群馬県内でも南部地域に偏在しており、この地域で製作された可能性が高いことを示している。
今後、局部磨製石鏃の産地分析資料の蓄積により、製作と流通についての実態について明らかにすることが可能となるであろう。
註
1)吉田 格「局部磨製石鏃考」『考古学ノート』1,武蔵野文化協会考古学部会,1951,pp.2-4
2)芹沢長介「半磨製石鏃について」『考古学集刊』3,東京考古学会,1949,pp.10
3)斎藤基生「縄文時代晩期の部分磨製石鏃について」『古代文化』38-3,古代学協会,1986,34-43
4)大工原 豊「縄文時代後・晩期における局部磨製石鏃の展開と意義」『青山考古』8,青山考古学会,1990,pp.39-57
5)大工原 豊「縄文時代後・晩期の局部磨製石鏃」『縄文時代』17,縄文時代文化研究会,2006,pp.25-50
6)註4大工原1990に同じ
7)大工原 豊『縄文石器研究序論』,六一書房,2008
8)註4大工原1990に同じ
9)註5大工原2006に同じ
10)註5大工原2006に同じ
11)註4大工原1990に同じ
12)安孫子昭二「『高井東様式大波状口縁深鉢』の編年と分布」『東京考古』11,東京考古学談話会,1993,pp.65-98
13)大工原 豊「縄文時代における黒曜石の利用と展開」『2011年度栃木大会研究発表資料集』日本考古学協会2011年度栃木大会実行委員会,2011,pp.35-46
14)建石 徹・三浦麻衣子・村上夏希・井上優子・朴 嘉瑛・津村宏臣・二宮修治「栃木・群馬県内諸遺跡出土黒曜石の産地分析」『2011年度栃木大会研究発表資料集』日本考古学協会2011年度栃木大会実行委員会,2011,pp.269-306
15)建石 徹・菅頭明日香・津村宏臣・二宮修治「黒曜石の縄文石器」『ストーンロード』安中市ふるさと学習館,2008,pp.68-72
16)註14建石ほか2011に同じ
(報告書は省略)
※『季刊考古学』第119号 雄山閣 pp.61~65に掲載